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外敵侵入を防げない「万里の長城」を作った彼の国と、論理的に不可能な「再エネの主力電源化」を唱えるどこかの国も、どっちもどっちだ。

(2020/10/27) 
外敵侵入を防げない「万里の長城」を作った彼の国と、論理的に不可能な
「再エネの主力電源化」を唱えるどこかの国も、どっちもどっちだ。

「万里の長城」と「ピラミッド」と日本の「戦艦大和」を
「世界三大無用の長物」と言うそうだ。全く役立たなかったから。
「戦艦大和」を作った日本は、凝りもせず「再生可能エネルギーを主力電源」にすると喚き散らしている。
主力電源実現化の前に発電業者の屍の山を築くことになるのに。




不到長城非好漢
(長城に行かなきゃ男じゃない)

北京に観光旅行で行くと、旅客が中国人であろうと外国人であろうと、『毛沢東が「不到長城非好漢」(長城に行かなきゃ男じゃない)と言ってた』と言って、他に行くところもないため、強引に北京郊外の万里の長城に一日がかりで連れていくそうだ。
どこの国でも政変などで前王朝が崩壊すると、新王朝は前王朝の残したものを全部壊してしまうそうだが、中国でも王朝が変わるたびに古いものは壊された。
たとえば、文化大革命時は、仏像や宗教や文化と地主はすべて壊され、万里の長城だけ残ったのだ
大きくて壊せないとか、硬くて壊せないものだけ残ったのだ。万里の長城や城の城壁などはなかなか壊せないので残ったようだ。

                                                                                        (図1.1)


万里の長城の目的

中国の初代皇帝秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日)は、北方の異民族匈奴 (きょうど) の侵入を防ぐために、周王朝(紀元前1046年-紀元前256年)時代に構築した壁1000kmから1,500kmの長さを、主にヤン州の北壁、趙州の北壁、秦州壁を改装し、それらを結びつけるために新たな壁を作り、壮大で巨大な防御壁を形成した。これで5,000km(古代中國の1万里に相当) となり、万里の長城」と呼ばれるようになった

5,000kmを日本にあてはめると、北海道の北端宗谷岬から青函トンネルを通って東京まで行き、東京から大阪を経由して下関に行き、そこから福岡経由で鹿児島までのJRの路線の距離が3,000kmである。万里の長城はさらに2,000kmも長い。想像を絶する距離である。

その後、いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存する長城は6,200kmあり、消滅したものを含めると1万2,000kmあったのではないかと言われている。

現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたもので、その長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。
しかし、万里の長城はピラミッド戦艦大和と並ぶ「世界三大無用の長物」ともいわれている。役立たなかったからである。
如何に役立たなかったかを、次章以降で説明する。
(図1.2)

始皇帝が築いた長城

始皇帝が築いた長城は(図1.3)とされている。
最北端は旧満州国の長春市付近まで伸び、西の壁は、黄河の南側と川の北側の2つの部分から構成されている。
南部は、西方市の臨島(現在の甘粛省のみん仙県)、寧夏市の白西、甘粛省、景会郡、恒山区、玉陽区、内モンゴルのトゥオケトゥオ郡陝西省の深武郡を経由して走り、黄河の南岸で終わる。
北部は西のラングシャン山から始まり、大慶山を渡り、内モンゴルの済寧区と興河郡ウランカブ、シャンギ郡、張北郡、河北省のウェイチャン郡を経由して遼寧省に入る。遼寧省の伏春と弁西を渡った後、南東に曲がり、青川河口で終わる。

                                                       始皇帝が築いた長城                   (図1.3)




外敵の侵入は防げたか?

最大の侵入

                                     蒙古軍襲来                               (図2.1)



万里の長城をいとも簡単に乗り越え、中国を支配下に置いた、現代人が知っている、最も有名な外敵はモンゴル帝国である。
13世紀と14世紀のモンゴル帝国は、歴史上最大の陸続きの帝国だった。モンゴル帝国は東アジアのモンゴルを起源とし、最終的には東ヨーロッパと中央ヨーロッパの一部から、北極圏はロシアの樺太の最北端にまで広がった。万里の長城を軽々と越えて中国を含む東南アジア本土を制圧後インド亜大陸、イラン高原に東進し、南進し、西進し、レバントとカルパティア山脈に至るまで伸びていた。
モンゴル帝国にとって中国は帝国の中の一部であって、中国だけを乗っ取るために侵略したのではないのである。

モンゴル帝国は、チンギス・ハーン(c. 1162-1227)の下、モンゴル遊牧民のいくつかの部族の統一した評議会は、彼を1206年にすべてのモンゴル人の支配者として宣言した。帝国は彼と彼の子孫の支配下で急速に成長し、侵略軍をあらゆる方向に送り出した。広大な大陸横断帝国は、東洋と西洋、太平洋と地中海を結んでおり、ユーラシア大陸全体に貿易、技術、商品、イデオロギーの普及と交換を可能にしていた。

チンギス・ハーンの孫のクビライ(フビライ)モンゴル帝国の第5代皇帝即位した後(1271年)モンゴル帝国の国名を大元ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)と改名し、都を大都(現在の北京)においた。
中國においては、907年に唐王朝が崩壊して以来370年ぶりに中国全土を統治する統一王朝の出現である。


話は少し逸れるが、同時代の日本について少しお話します。
当時日本は、源氏と平家が激しく戦い、平家滅亡へ追い込んだ頃である。
平家の最後は壇ノ浦の戦い1185年4月25日で、追い込んだ源氏の大将は、源氏のエースでイケメンの九郎判官義経だった。
その義経も、嫉妬深い兄頼朝に追われて東北の平泉町衣川館で、弁慶の仁王立ちに守られながら没したと言われている。享年30歳の若さだった。(1189年)
しかし、判官びいきの追っかけたちは、義経がそこで死んだとは信じたくないのである。実は義経はモンゴルまで逃れて、チンギス・ハーンになったと信じている。義経は1159年生まれ、ハーンは1162年生まれ、殆ど年の差がない。
判官びいきたちが信じるのも無理がないようだ。

                                                              モンゴル帝国                                        (図2.2)
            

マルコ・ポーロとクビライ・ハーン   
 
ヴェネツィアを出たときは17歳だったマルコ・ポーロ兄弟一行3年半後、21歳前後まで成長し、1274年(?)目的地大都(現在の北京)に辿り着き、時の皇帝クビライ・ハーンに謁見。(その時はすでに文永の役が始まっていた年である)
クビライは兄弟一行を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げかけ、またローマの教皇や教会についても聞いた。皇帝はリベラル・アーツ(実践的な知識・学問)にも関心が高く、それらに通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇宛ての書簡を託した。さらにクリスム(イエス・キリスト墓前に灯るランプの油)も持ってくるよう求めた。大変好奇心、向上心の強い皇帝だった。

兄弟は皇帝から驚くような話を聞いた。その話を東方見聞録に記述している。
「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われていおり、その価値はほとんど計り知れない。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には多量の宝石も産する」

金で出来た家とは、平泉の藤原秀衡たちが作った金色堂のことで、それを知っているのは平泉に行ったことのある人しかいないはずだが、義経は平泉に数年間いたので金色堂は見てる。やっぱしチンギス・ハーンは義経に違いない。義経が平泉の衣川館から消えたのは30才(1189年)の時で、、それから17年後の1206年にチンギス・ハーンは皇帝になった。17年あれば義経なら出来る。やっぱしチンギス・ハーンは義経だ。   \(◎o◎)/!

東方見聞録に強く影響を受けたイタリアジェノヴァ出身のコロンブスは、航海に乗り出した。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられているそうだ、影響の強さが分かる。
また、その後の世界地図にはジパングが入り、頑丈なキャラック船キャラベル船が建造され、マルコ・ポーロの持ち帰った方位磁石で羅針盤が作られ、大航海時代を支えた。新技術に支えられてポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマや、スペインのマゼランの大航海時代が始まった。
日本ってすごいなー、そのころから日本は世界に影響を与えていたのだ!!

           1274年文永の役、1281年弘安の役

 黄金の島ジパングに目が眩んだクビライ・ハーンは、使節の派遣を決定すると、1266年(文永の役の8年前)に高麗国の使者を通して我が国に、上から目線の国書を送った。
「朕(ちん)思うに、古より小国の君主たるもの、隣国との親善関係に努めるものである。わが祖先は天命を受け、世界を支配するに至った。(中略)高麗は朕の東の従属国となった。日本は高麗と親しく、建国以来、時には中国とも通行しているが、朕の即位以降一人の使者も送ってこない。ゆえに使者を派遣し、国書を持って朕の志を布告させよう。願わくは、友好関係を結び、親しく接したい」
正に戦狼外交である。現在の中国の戦狼外交はこのころから始まっていたのである。
これに対して我が国は、亀山天皇が毅然たる態度で、返書を返した。
曰く、
「そもそも貴国は、かって我が国と人物の往来はなかった。本朝(日本)は貴国に対して、何ら好悪の感情はない。ところが経緯を顧みずに、我が国に凶器を用いようとしている。・・・(貴国は)どうして自らを「帝徳仁義」などと称しながら、かえって民衆を殺傷する源を開こうというのか。・・・およそ天照大神の天統を耀かしてより、今日の皇帝の皇位継承に至る聖明の及ばぬところなく、歴代天皇の鎮護は明らかで、四方の異民族が治まり、乱れがない。ゆえに国土を昔から神国と号すのである。知をもって競うべきでなく、力をもって争うべきではない、唯一無二の存在である。よく考えよ。」

脅しに屈しなかった当時の亀山天皇はご立派だった。脅しに負けていたら、今の日本は無かったかもしれない。アリガタイアリガタイ。

(現在の中共は脅し一点張りで、日本にも向かってる。日本の今の政治家に必要なのは亀山天皇のように毅然たる態度だ。負けるな日本)

返書を受け取った後の戦は、みなさんご存じだから余計なこと記述しません。


 元朝の統治    
  
 
チンギス・ハーンは重臣の一人に「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。  重臣の優等生的答えに怒ったカーンは、「違う」と怒鳴り、
男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。

 蒙古軍が侵略すると、 市場、寺院、搭、民家、あらゆる建物を破壊した。一つの町が消滅し、平地に還っしまった。モンゴル軍は犬や猫まで皆殺しにした。犠牲者は174万7000人に達したという。モンゴル軍は畑を燃やし作物を台無にし、農民から暮らしの糧をすっかり奪った。臆面もなく、己の謀略行為をことさら喧宣した。          
侵略すると、身の毛もよだつような恐ろしい処刑。体のすべての穴に融けた金属を流し込まれた。
『モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った。黄金づくりの宝石で覆われたベッドやクッションはナイフで破壊され、断片さえも粉砕された。ハーレムのベールに隠れる者は路地に引きずられ、陵辱された。殺戮によって市民は死に絶えた』

2週間で市民100万人も大虐殺「バクダードの戦い」
モンゴル軍はバクダード市街を蹂躙し、モスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な建築物は消失した。薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの知恵の館は破壊された。「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。
バグダード・アッバース朝最後(第37代)のムスタアスィム皇帝はモンゴル軍将軍郭侃に捕らえられ、市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。
その後ムスタアスィムは敷物に巻かれ、モンゴル軍の軍馬に踏み殺された。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍は皇帝ムスタアスィムの子供たちも殺害、『集史』(イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅令により編纂された歴史書) によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。
モンゴル軍が陣地をわざとバグダードの風上に移動させて、大量の死体から発する凄まじい腐敗臭を嗅がせたという。モンゴル軍は降伏を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊したが、降伏した都市は破壊しなかった。これはモンゴル軍の戦術だった。
たとえば、朝鮮半島の高麗国は、モンゴル軍の噂を聞いただけで血の気が引くほど震え上がり、二つ返事で属国となってしまい、モンゴルの命令には無条件にしたがった。日本の使者になったり、元寇となって我が国に攻め込んできたが、海の藻屑となった。それ以来朝鮮半島は、中国本土が外敵に襲われた時、遼朝.金朝、清朝、元朝の時、すべて簡単に属国になってしまっている。現代の韓国や北朝鮮も、千年前と同じことをやってるだけに過ぎない。

1258年当時のイラクは現在のイラクとは違う。農業は都市の運河によって数千年守られ、バグダードは世界一輝かしい知の中心地だった。モンゴル軍によるバクダードの破壊はイスラム教に回復不可能な心理的な痛手を負わせた。既にイスラム教は保守的になっていたが、このバグダードの蹂躙によって、イスラム教の知的開花は潰えてしまった。アリストテレスとペリクレスのいるアテネが核兵器により消滅する様を想像してほしい。モンゴル軍がどれだけ残酷であったか理解いただけよう。モンゴル軍は灌漑運河を徹底的に破壊した。これと殺戮による過疎化とによってイラクはもはや再起不能の状態に陥り、衰退の一途を辿ることとなった。
もし、文永の役か弘安の役で日本が蒙古軍に敗れていたら、イスラム教の世界のように日本はめちゃくちゃにされていただろう。改めて亀山天皇始め、多くのご先祖様たちに感謝しましょう。

                           モンゴル帝国の滅亡
 
1323年に君主位を巡る対立と抗争が相次ぎ、次々に君主が交代して王朝の安定が失われていった。さらにモンゴル諸政権の安定にとどめを刺したのはペストの大流行をはじめとする疫病と天災の続発であった。
現在の中国は新型コロナウイルスが蔓延し、長江の大洪水で三峡ダムが崩壊寸前であるのに酷似している。

モンゴル帝国から分裂した後、大ハーン位を継承しモンゴル平原と中国大陸を支配した元朝は、14世紀に入ると複数の皇后が生んだ男子に漢人が文官として後ろ盾となり、帝位の相続争いで統治能力が低下した。
さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと、反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)南京を根拠にして長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。久しぶりの漢人の統一王朝の出現である。

洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、元の皇帝・恵宗(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北平)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。
モンゴル帝国は1206年の帝国の宣言から、1368年明の建国宣言までの162年の栄華であった。奢れるもの久しからずである。


モンゴル帝国の悪弊が、いかに中華人民を変えていったか?
(著者自身の独断と偏見に基ずく私見です)    

★★いつ投獄されるかも、いつ殺されるかも、いつ家族と離れ離れになるかも、いつ家が焼き払われるかも、いつ財産を没収されるかも、・・・といった環境に中華人民は陥った。そんな環境で、自分や家族の命と財産を守るには、まともなやり方では生きられなかった。
★★そんな地獄のような環境で生き延びていくには、馬鹿正直にやっていたのでは生き残れない。
★★嘘をついてでも、約束を破ってでも、人のものを盗んでも、人を殺してでも、生き延びて行かなければならない。中国では騙される方が悪いとなってしまった。
★★そんな環境では、文化も、道徳も、礼儀も、マナーも、・・・必要ない。
多少役立つ物が有るとすればそれは金だ。金さえ有れば何とか生き延びられる。

★★神話時代から今日まで外敵による支配を受けた事がない日本人は!

★★嘘はつかない、約束は守る、人に迷惑はかけない、自分の為でなく人のために、自然を大切に、美しきものを守り、文化を守り向上に努める、先祖を大切に、自己の向上に勤める、技術を磨く、・・・・、金(かね)はどうでもいい。
★★神武天皇以来今日までの2700年間、戦争で負けたことはあったが、外国の植民地になったことがない。そのことが素晴らしい日本と日本人を作り上げた。未来永劫、外国人に支配される植民地になってはいけない。
しかし、最近世界の動きを見ると、将来が少し危なくなっており、心配である。


最初の侵入


                                                   遼王朝(916年~1125年)            (図3.1)



モンゴルの侵略より前の最初の侵入は、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人耶律氏(ヤリュート氏)で、遼王朝(916年~1125年)を開いた。
遼(りょう)は、中原に迫る大規模な版図(現在の北京と天津までを含む)を持ち、軽く北京の近くにある万里の長城を超えてしまった。かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)の最初とされる。
以降、1368年に明王朝が出現するまでの452年間、中国は他民族の支配下に置かれることになる。(朝鮮半島は除く)
ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。
12世紀に入ると次第に勢力を強める女真が宋と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。その支配期間はなんと209年にもなる。
そのころ日本では、平家が「平家にあらずば人にあらず」と豪語して栄華を誇っていた時代が始まった頃である。




2番目の侵入

金王朝

                              金王朝1115年 - 1234年)       (図4.1)

遼王朝の次は金王朝(きん、拼音:Jīn、女真語: 1115年 - 1234年)で中国の北半を支配した女真族の征服王朝である(朝鮮半島は除く)
金王朝は遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したながら119年間続いた。都は初めは会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省ハルピン市)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)に設置した。
金建国前の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(中国語版)(アルチュフ川)流域にいて、遼に対して服属していた。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。これに対し、女真族の完顔部から出た完顔阿骨打(アクダ) が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位、「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる。

                                      太祖 完顔阿骨打(図4.1)



金は1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束した。しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)を落とし、宋に割譲した。阿骨打は1123年に死去するが、弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した。
1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させ、北宋を完全に滅ぼし、中国の北半を征服した。
またこの時女真族である金軍は、漢人である宋の皇帝のみならずその父の上皇徽宗、および多くの皇族や妃、公主たちをも連行し、妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。
女真族は漢人を完全に奴隷化したのである。金は漢人の北宋を滅ぼした。

その後、宋の残存勢力である趙構(高宗)らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金は、1125年から南宋に対する懲罰を名目として再度の南征を開始し(宋金戦争、1125年 - 1234年)、中国の中心である長江近くまで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。

1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。
この和約で宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、漢人たちは異民族である女真族の植民地の奴隷になってしまったのである。

金王朝が中国を支配したのは1115年 - 1234年の119年間であった。
南に逃れた南宋も軟化したモンゴル帝国に滅ぼされた。(1279年)





長城の大改築時代

秦の始皇帝以後、大々的な築造を行ったのは前漢の武帝(前141年3月9日 - 前87年3月29日) 。彼は、領土拡大にともない、西へ北へと、長城を拡張して行った。(図4.2)武帝は、一定間隔に、外敵の侵入を監視する望楼や、焼火台のある城砦を設置することも忘れなかった。
漢代以後も、北魏や隋などの各王朝が修築や増築を繰り返したが、再び、本格的な建設が始まったのは、明代に入って からであった。現存するほとんどの遺構は明代(1368年 - 1644年)のものである。明代中期には、約100年にわたって、代々皇帝が長城建設を受け継ぎ、 現在見られる長城が築かれた。

                                               明王朝の築いた万里の長城             (図4.2)




(第4)最後の大侵入

                       清王朝(1616年-1912年)           (図5.1)

17世紀初頭に明の冊封下で、満洲に住む女直(以下;女真族)の統一を進めたヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に建国した後金国が清の前身である。1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破ると、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶに至った。その子のホンタイジ(皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽「制誥之宝」と護法尊マハーカーラ像を譲られ、皇帝として即位するとともに、国名を清国とし、女真の民族名を満洲(manju)に改めた。

後金第3代目順治帝のとき、中国では農民出身の李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ(1644年)。 清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京(京城)に遷し、中国支配を開始した。(朝鮮半島は除く)


帝室の姓氏を満洲語でアイシンギョロといい、これを漢語に音写したものが愛新覚羅である。アイシンは「金」という意味のかつて女真人が興した金王朝やヌルハチが興した後金からとった族名(ムクン)、ギョロは父祖の出身地の地名を戴いた姓氏(ハラ)で、合わせて「金のギョロ一族」を表す。満洲人は清代には漢人のように姓氏と名を続けて呼ぶ習慣は無かった。
ちなみに、清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)宣統帝の姓名は愛新覚羅溥儀1912年の辛亥革命で退位後、満州国の皇帝になった。日本の敗戦後、ソ連軍捕虜となり、撫順戦犯管理所に収容され、1967年北京で一般市民として死去した。


少人数の女真族は圧倒的多数の漢人を、いかにして支配したか?

清は満洲・モンゴル・旧明領・チベット・東トルキスタンこの五つの地域を束ねる同君連合であった。現代の中国共産党が主張する領域に対する根拠がこの清朝時代に作られている。

清の皇帝は、満洲人にとっては満洲族全員を率い、旧明領の漢民族にとっては天命を受けた明王朝に替わる儒教天子、モンゴルにとってはチンギス・ハーンを継承するモンゴル諸部族の大ハーン、チベットにとってはチベット仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身、東トルキスタンにとっては異教徒ながらイスラムの保護者である。
儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。

少数派の異民族である満洲族の支配を、中国文明圏で圧倒的大多数を占める漢民族が比較的容易に受け入れた背景には、清が武力によって明の皇室に取って代わったとの姿勢をとらず、明を滅ぼした李自成を逆賊として討伐したという大義名分を得たことがあげられる。       
                                                                            
自殺に追いやられた明の17代皇帝崇禎帝の陵墓を整備し、科挙などの明の制度を存続させるなど、あくまで明の衣鉢を継ぐ正当(正統)な中華であることを前面に出していた事が考えられる。                                                                                                 

辮髪の強制

中国では儒教の影響が深く「身体髪膚(はっぷ)これ父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」(体のすべては両親からいただいたものなのだから、これを大切にし、傷つけたりしないというのが親孝行の基本である)という孝経の教えを大切にしてきた。髪の毛も人体の一部ですから、これを切ることも避け、長く伸ばして髷にして結っていた。

ところが清朝は満州族という中国大陸の東北にいた異民族によって統治された国である。辮髪はこの満州族の習慣だった。彼らの辮髪というのは、頭をほとんど剃ってしまい、ほんのわずか残した髪の毛を三つ編みにする、という髪型である。満州族は中国全土を我が物にすると「剃髪令」を出した。髪を剃らない者は斬首にする、と。当時この命令について人々は「頭を残したい者は髪は残せない、髪を残したい者は頭は残せない」と言い合った。
最初は髪をほとんど剃ってしまい、頭頂部よりやや後ろにちょこんと髪を残し、そのわずかな髪で三つ編みにするというものだった。漢人たちはこの髪型を嫌悪し「金銭鼠尾」(コインの下に鼠のしっぽ)と馬鹿にした。

それでも為政者に楯突けば文字通り首が飛ぶ。そこでしぶしぶ従ううちに百年、二百年が経ち、まるで昔からそうであったように、このスタイルになじんでいきった。清王朝の方も異民族としての自分たちの文化より漢民族の伝統文化になじんでいき、こうして漢民族の美意識に少しずつ近づき、それとともに髪の毛を剃る部分が減っていった。清朝末期になると剃るのは頭の前の部分だけ、後ろは髪の毛を残し、貧弱な鼠のしっぽから太い三つ編みになっていき、この髪型を「陰陽頭」と呼んだ。




鄭成功と日本と台湾
しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、特に鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。
実は、鄭成功日本の平戸生まれで1624年8月27日父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。父、鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて平戸の川内浦に住んで、田川マツを娶り鄭成功が産まれた。
幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のとき1631年)に父の故郷福建に移る。鄭一族は泉州府の厦門(あもい)島、金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。

眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功
(日本人の血が半分流れています)


そんな中、21才の鄭成功は父の紹介により南明の第2代皇帝隆武帝の謁見を賜る。(1645年)帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな成功のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』( 明の初代皇帝は朱元璋)を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、鄭成功は決して朱姓を使おうとはせず、鄭姓を名乗った。
隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、父鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたが、鄭芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。
その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年(1659年)の3月25日に再度進軍を始めた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
北伐軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。
鄭成功は勢力を立て直すために台湾を占領し、拠点にしようと試みた。
中国大陸から台湾に逃げ込んだ最初の大物人物となる。

当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、鄭成功は1661年に澎湖諸島を占領した後に、同3月30日からゼーランディア城を攻撃(ゼーランディア城包囲戦)、翌1662年2月21日にこれを落としてオランダ人を一掃し、鄭氏政権を樹立した。


                       オランダ東インド会社が構築したゼーランディア城

台湾語名は安平古堡(あんぴん こほう)台湾台南市
1624年に建設された台湾で最も古い城堡
鄭氏政権時代には3代にわたる王城として使用


ゼーランディア城跡に安平城を築き王城とし、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して国家体制を固めたが、熱病にかかり同6月23日に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれた。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。

鄭成功は彼自身の目標である「反清復明」を果たす事なく死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実であるために、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られており、毎年4月29日復台記念式典が催されている。

こんな時代から日本と台湾は深い付き合いがあった。現在でも日本と台湾が親密な理由が、鄭成功に追うところも大きいのではないだろうか?

中華民国(台湾)政府と中華人民共和国(共産党)の関係


建国以来、反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。

しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で、福建省の統治下に編入した。

ただし清朝は、台湾を「化外の地」としてさほど重要視していなかった為に、統治には永らく消極的であり続けた。土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけ、台湾原住民を化外の野蕃として放置し続けてきた。

一方で漢人は番界(台湾原住民の生活域)に土地を借りるので、徐々に原住民の生活域は圧迫され、その度に番界は策定しなおされたが、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。


宮古島島民遭難事件

日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年、同治10年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である

日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるから、神国には責任がないという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。


中華人民共和国と中華民国

中華民国革命家孫文臨時大総統とし、アジアで2番目の共和国として1912年に中国大陸で成立したが、国共内戦で中華人民共和国に大陸地区から放逐され、1950年以降は台湾省の全域と福建省の極一部の島嶼(台湾地区)を実効支配する海洋国家となった。

1949年10月1日、毛沢東は北京で中華人民共和国を建国し、一方の蔣介石は重慶などを経て、同年12月に成都から、息子の蔣経国とともに飛び立ち台湾島の台北に遷都することになる(台北は臨時首都)。蔣介石は中国大陸から台湾に逃げ込んだ鄭成功に次ぐ第2の大物人物となる。

蔣介石は、3月に総統への復任を宣言した。海南島、舟山諸島の失陥後、台湾は臨戦態勢に入った。蔣経国は各部隊を慰問して、たとえ死すとも領袖蔣介石に忠誠を尽くすとの血盟宣誓を行うキャンペーンを繰り広げており、台湾全土が事実上蔣介石と運命をともにすることを強要された。

台湾全土が極度の緊張に包まれていく中、1950年6月25日、突如として事態が急変する。朝鮮戦争により、トルーマンは台湾不介入声明を撤回して同年6月に台湾海峡の中立化を名目に第七艦隊を派遣した。朝鮮戦争に人民義勇軍が参戦したため、人民解放軍による中華民国(台湾)への軍事行動は1950年10月から一時的に停止した。

1950年3月に再び総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし、同時期、中華民国が国連常任理事国として支持した国連軍の司令官で蔣介石と気脈が通じていたダグラス・マッカーサーが朝鮮戦争への中国国民党(台湾)軍の投入などを強硬に主張してトルーマン政権に解任され、香港を抱えるイギリスは中国共産党が建国した中華人民共和国を承認するなど逆風も受けた。

五権憲法(中国語版)に基づく議会制民主主義・資本主義体制国家であり、1971年までは国際連合安全保障理事会常任理事国として国際社会に大きな影響を与えていた。しかし国連の代表権問題や一つの中国政策により、中華人民共和国が中華民国を国家承認しないように要求しているため、国連を追放された。2020年現在では中華民国を正式に国家として承認している国は15ヶ国に留まる。

日本は、日中共同声明により中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認して国交を樹立したことに伴い、中華民国政府(台湾)との国交を断絶した。これによって双方の大使館等が閉鎖された。また、国交断絶時に、民間の実務関係を維持するために、日台相互に非政府組織としての連絡機関(日本側は日本台湾交流協会、台湾側は台湾日本関係協会)を設置し、現在に至っている。


なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、清朝が台湾のみでなく尖閣諸島にも主権が及んでいたと主張している。


台湾の有史以降の歴史の中で、台湾が中国の一部になったことはなかった。勿論尖閣諸島もしかりである。
また中国大陸の支配者たちは、台湾は中国大陸から見たら「化外の地」に過ぎないと、正式に表明している。
また国を動かすほどの人物が2人ばかり台湾へ逃げ込んだ実績があるが、それをもって台湾が中国であったという根拠にはならない。
過去にも、現在も、将来とも台湾はれっきとした独立国である。






(第5、6)海からの侵入
(1)西欧諸国の進出

19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。 19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。
しかし、18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。ギリス商人は18世紀末に西欧の対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。また、アメリカも独立戦争後の1784年にアメリカの商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始した。米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器・陶磁器・家具を得た
1793年、イギリスは広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、商品価値を持つイギリスの製品は無く、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。
この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。
林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する施策を執ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスは、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌1840年清国沿岸に侵攻しアヘン戦争を始めた。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派とムジャンガら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、1842年イギリスと不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港島の割譲上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的(一方だけが義務を負う) 最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。

                                                                  アヘン戦争                    (図6.1)

(2)黄海海戦 (日清戦争)

東学農民運動と日清駐兵

1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の下で蜂起し農民反乱が勃発した。自力での鎮圧が不可能な事を悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し、5日に大本営を設置した。日本側も部隊を送り込んできた事を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし、日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないとして15日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると、24日に日本は単独で改革を行う旨を宣言しこれが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。

日清開戦

黄海海戦(こうかいかいせん)は、1894年明治27年)9月17日日本海軍連合艦隊清国海軍北洋艦隊の間で戦われた海戦鴨緑江海戦とも呼ばれる。近代的な装甲艦が投入された最初の戦いとしても知られる。この海戦の結果、清国海軍は大損害を受けて制海権を失い、無力化された。      

                                                                 黄海海戦                                             (図6.2)



中国の漢民族が、外敵に支配された結果

支配された期間
中国大陸は、有史以降の2000年の中で、20数回も、王朝が変わった
変わるときはいつも全王朝が築いたものや制度や文化などは完璧に破壊した。
なかでも、916年に遼王朝が中国の一部を異民族支配を始めて、1912年2月12日に清最後の皇帝溥儀が退位し、清国が亡びるまでの1000年間に、中国は漢民族以外のいわゆる外敵にに支配されたのが738年に及ぶ。
約1000年の内70パーセント以上の期間を外敵の支配を受け、国民は奴隷にされていた。万里の長城は全く役立たなかったのである。
植民地にされると、どこの国でも民衆は奴隷として悲惨な生活を強いられる。中国の民衆もまさにその悲劇をまともに受けたのである。

支配された結果、民衆はどのように変わったか
(著者自身の独断と偏見に基ずく私見です)(再掲 

★★(支配者は庶民の命も財産も守らない)
いつ投獄されるかも、いつ殺されるかも、いつ家族と離れ離れになるかも、いつ家が焼き払われるかも、いつ財産を没収されるかも、・・・といった環境に中華人民は陥った。そんな環境で、自分や家族の命と財産を守るには、まともなやり方では生きられなかった。
★★(自分の命も財産も、自分で守るしかない)
そんな地獄のような環境で生き延びていくには、馬鹿正直にやっていたのでは生き残れない。
★★嘘をついてでも、約束を破ってでも、人のものを盗んでも、人を殺してでも、生き延びて行かなければならない。
★★(国民の民度が高くなる筈がない)
そんな環境では、文化も、道徳も、礼儀も、マナーも、・・・必要ない。
多少役立つ物が有るとすればそれは金だ。金さえ有れば何とか生き延びられる。

外敵に大半の期間を支配されていた中国の歴史から得られる教訓

我が国は、神武天皇以来今日までの2700年間、
戦争で負けたことはあったが、外国の植民地になったことがない。
そのことが素晴らしい日本と日本人を作り上げた。
未来永劫、外国人に支配される植民地になってはいけない。
しかし、最近世界の動きを見ると、
将来が少し危なくなっており、心配である。





『再生可能エネルギーの主力電源化は、今の技法では発電業者の倒産を増やすだけだ』との主張に耳も貸さない我が国も、
中国と同様な悲劇に見舞われるだろう。



最後までご精読ありがとうございます。ご質問、ご感想、反論等
ozaki@smart-center.jpまで直接お送りください。





































秦以降の中国史(一部)

(出典)Wikipedia


























































































































































































































































































































































































































































































































































































王朝は現在の中華人民共和国の基礎を作ったと言える。現在ロシアの領域になっているハバロフスクまでを含んでいる。
近い内に中国共産党はロシアに対して侵略を開始するだろう。もともと中国だったと言って…。





























































































































































































































































化外の地(けがいのち)
中華思想では、中国権力法律が行き届いていない地方のことをいい、またその地方に住む民族を「蛮族」と呼んだ。中国の古代では、中原から遠く中華文化の影響が薄かった台湾海南新疆などのことを呼んだ。












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